おいで、と言われてから一日が始まるようにボクの人生は設定されている。赤司君の一言でボクのすべてが決まる。彼の言うことは絶対である。逆らったら自分が消える。大げさな表現だと言われるだろうがボクにはこういう表現しかできなかった。

「そういえばあの本の返却期限今日までだったような……」
返却日に遅れたら担当の人に怒られて一週間、本を借りることが禁止されてしまう。一週間もあれば完結済みの長編小説なら全部読み終えられる。赤司君に薦められて読み始めたそれは読んでいてページを捲る手が止まることが一度もなかった。ストーリーも表現もすべてがボクが求めていたものだった。赤司君に一巻だけ借りて読んだら瞬く間にその世界に吸い込まれた。続きが気になって待ちきれない本に出会ったのは初めてだった。と、回想する前に取りに戻らなければいけない。ボクは急いだ。

いつ見ても教室は殺風景だ。決められた数だけきっちりと並んでいる机が広いとは言い難い空間に堂々として存在している。それだけなのにここは教室だと机たちが主張しているように思えた。その中にボクが入っても何も変わらない。赤司君がいても、変わらないだろう。机の中に忘れてた小説を取り、図書室へ向かう。

「あの、これ返します」
「はーいじゃあ預かりま……いつからいたんですか!?」
「最初から居ましたけど……」
受付の人に返却を済ませて続きを探す。まだボクの一日は始まっていない。幸い小説コーナーが入り口からすぐ近くにあるおかげで時間を短縮することができた。

「昨日」が長い。定義されている一日の時間を越えた記憶が形となってのしかかっているようだ。鉛や鉄球よりもずっと重い。早く。早くあの言葉を聞かないと解放させてもらえない。赤司君はどこに居るのだろうか。いつものように部室に居たらいいけれど。ボクは借りた続きの本を片手に部室へ向かった。



「おかえり。随分と時間かかったね」
「すみません赤司君。少し立て込んでしまいました」
「ああ、気にしてないからいいよ。それ、借りたんだね」
「はい。赤司君が言った通りでした。続きが気になって仕方がないです」
部室の扉を開けると笑顔の赤司君が椅子に座っていた。ボクを待っていたかのように。バスケをしている赤司君とそれ以外での彼は別人に近い。性格は変わらないが表情が違うのだ。微笑すらも珍しいものとして見てしまう。ボクは心の底から、何も考えずに笑った赤司君を見たことがない。

「そう。最後までしっかり読むんだよ」
「……はい」
赤司君はボクが待っている一言を言おうとしない。きっとボクの様子を見て楽しんでいるに違いない。忘れている、なんてことはありえない。どんどん記憶が蓄積されて重さを増していく。このままだと押し潰されてしまいそうだ。重量に負ける。それに加えて赤司君のすべてを見透かしている瞳がボクのそれを捕らえる。ぞわっとした。

「こっち」
突然視界から赤司君が消えた。音も立てずに。後ろに振り向こうとした瞬間、背後から耳元に特有の生暖かさを持つ息が吹きかけられた。身体にびくんと震えが伝った。

「おいで」
おいで。確かに赤司君はそう言った。ボクが待ち侘びていた、一日が切り替わる唯一の言葉。ようやく「昨日」から解放された身体はどこか軽く感じる。昨日の記憶は一時的に隔離され、今日の記憶が蓄積され始める。それが限界を迎えたらボクはまた赤司君の言葉を求める。その繰り返しで生きている。

「赤司く、ん」
「分かりやすいねテツヤは。表情変えないように頑張っても身体が震えてちゃ意味がない」
「まさかここまで焦らされるとは思いませんでしたから」
「たまにはいいんじゃないかな?こういうのも」
「どういう意味です、か……!」
強制的に身体の向きを変えさせられ、ぐいっとネクタイを引っ張られた。赤司君の顔がすぐ目の前にある。もう慣れたとは言ってもやっぱり恥ずかしさは少し残っている。髪の色と同じ若干暗さが含んでいる紅色と控えめな黄色の瞳は綺麗であると同時に恐怖感も与える。しかし、問答無用で赤司君の唇がボクのものに重ねられた。強引で侵食し尽くす口付けだ。

ジャラリと何かが落ちる音がした。わずかな隙を見つけて下に目をやると将棋の駒が散らばっていた。赤司君が考えそうなことだ。音に意識を奪われた瞬間を彼は見逃さなかった。いきなりやってくるぬるりとした感触。赤司君の舌が侵入したのを意味している。鳴らない警報。いや、鳴ってはいけない。喘ぎ声が漏れるのが自分で嫌になる。目の前でキスを楽しんでいる主は人の羞恥を利用してくる。ここまで耳を塞ぐ手段が欲しいと思うのは初めてだった。しかし、はっきり聞こえる喘ぎがますますボクを辱める。

赤司君は笑っている。

「あっ、う……」
「さあ、一日が始まる。呼吸整えて、遅れないようにしな」
長い一日は終わり、そして新しく入れ替わる。散らかっている将棋の駒がボクを見つめているように見えた。

11/06/24