歩き慣れた東京も久々に歩いてみると去年とはまるで違う感覚に陥る。地面を踏む音、仲間同士の他愛もない日常会話、流れてやってくる風。どれも京都に居ても必ず遭遇するものだが、東京で感じるそれらは不思議なことに別物に思えた。慣れ親しんだ土地だからだろうか。少し違う気がするが、この地を考察するために歩きに出たわけではない。僕は雑念を捨て、再び歩を進めることにした。
行く当てもないまま何となくで東京を歩く。大都市の姿は身を潜め、緑を背景に漠然とした光景が広がる道をひたすら進む。その背景がある人間を彷彿とさせる。今も尚、ここの緑色と同じように汚れを知らないままだろうか。互いを引き立て合う色は片方が汚れていたら意味がないのだ。
しばらく歩き続けていたら、数秒前まで歩いていた道が消えたと錯覚させるような街並みが突然姿を現した。時の流れとは奇妙なものでたった一年、中心から去っただけでここまで変貌するものなのか。僕が知っている東京はほんの一部として生きている。ごちゃごちゃに混ざった音とも言えない何かが鼓膜を刺激する。邪魔な音は隔離してしまえばいい。街は更に騒がしさを増していき、本来の東京はこうだと言わんばかりに主張する。それが鬱陶しくて、僕はまた歩く。
「それにしても……東京ってこんなに煩い街だったかな」
さすがに活発すぎて思わず溜息が漏れた。募る僕の憤りなどに見向きもせず、東京は活発化していく。
「今日はリアカーなしでいいってどういうことよ真ちゃん。頭でも打った?」
「お前が頭を打つのに付き合ってやるのだよ高尾」
「はぁ!?真ちゃんが言うと冗談に聞こえねぇからやめろって!」
その中で特別さを感じさせるわけでもない会話が耳に残った。どこでも聞けるようなものがたまたま記憶されたとは言い難い。すっと横切る二つの影。聞き慣れた声と見知らぬ声。軽い調子で怯えた台詞を言う後者によってもの凄まじい不快感を与えられた。溶け込むように加わっている前者を指す呼び名がそれを揺るがないものにした。
「真ちゃん、ね……」
それから僕はあの影達を追って歩き続けた。森林を連想させる緑色の髪は人混みの中でも見つけやすく、見失うことはなかった。しかし、その髪色には穢れが溜まっている。知らない色で上塗りされた僕の所有物。完成された盤上の中の世界を崩すようにそれを奪う略奪者。そして、僕はそれを取り戻しに行く主だ。
喧騒を極める東京の中心から大分離れたらしく寂れた街路に辿り着いた。二つの影は親切に設置されているベンチに腰を下ろすと僕の存在に気付いていないが故に互いに距離を縮めて身体を密着させた。こっちに戻っておいで、穢れを拭きとってあげる。しかし、彼は自ら穢れに身を託していた。それは極限まで耐えてきた情けを崩壊させるには十分すぎた。
「何となく歩いてたら変な所着いたんだけどお前どうすんだよ!?まぁ久し振りにチャリ漕がないで一緒に歩けたからいいけどよー」
「勝手にオレに合わせて歩いていたお前が言うな。……二人で歩きたいって言ったのはお前なのだよ」
「だから漕がなくていいって言ってくれたわけ!?真ちゃんー!」
「だっ、抱きつくな!少しは考えるのだよ!」
性別を除けば傍から見たら幸せそうな二人だと思うだろう。性別が問題な訳ではない。満面の笑みでその光景を見せ付けてくるところが癪に障る。糸で繋がれていた僅かに残っていた甘い情が音も立てずに消えていく。
「離れろ高尾……!」
「げっ、悪かったって真ちゃん!おしるこ買ってきてやっから!」
気分を損ねた僕の「真ちゃん」をなだめるために略奪者は立ち上がり、慌ててその場から去った。浮かれた感情は危険を感知する能力を奪う。ありがたい人間の性質に感謝して僕は彼の元に歩み寄る。
風が静かに通り去る。
「見つけた。真ちゃん」
背後から耳元に息を吹きかけ囁いたら、その身体は驚くほどに震えていた。みるみる恐怖に染まる表情がたまらない。特に端正な顔立ちをしている彼の顔にはそれがひどく映える。興奮が止まらない。
「何の真似だ、赤司……!」
「僕から真太郎を盗った彼の真似だよ。高尾君、だっけ?」
その名前を出した瞬間、真太郎の顔が険しいものに変わった。先程まで恐怖で塗りたくられていたのが嘘みたいだ。殺意にも似た感情を込めた眼差しで真太郎は僕を睨みつける。これは、随分と穢れてしまったようだ。僕が知っている緑は隅に追いやられている。今すぐ元通りに戻さなければ。
「真太郎は随分と変わったね。僕が知らない表情をするようになった」
「……それが高尾の所為だと言いたいのか?」
「分かってるじゃないか。彼は、真太郎にふさわしくない」
「……何だと」
真実を言ってやると真太郎の声の調子ががくんと下がった。刃物が作る痛みに近しい視線が逆に心地良い。
「僕が知らない真太郎はこの世に存在してはいけない。だから」
真太郎の口が開き、何かを紡ごうとする前に僕はそれを無効化した。様々な負の感情が混ざり合った真太郎の顔は永遠に保存したいくらいにそそられた。その顔に元通りの緑であったら完璧だったのにと思わずにいられない。
「元通りに戻してあげる」
真太郎は何も言わずに僕を睨む。それがどういう意味かは考えなくても理解できた。僅か数秒の視線での攻防が終わると、近くから耳障りな足音が聞こえてきた。真太郎はそれに反応して手を伸ばそうとしていたが、僕はその手の行方を晦ませた。空を切った真太郎の手はもう届くことはない。
「残念だけど彼の眼はもう無力だ」
12/07/13