三と一。どちらが大きいか質問されたら当然前者だと誰もが答える。それは俺達が生まれる遥か昔から存在している定義なのである。三が一より小さくなることはないし、一が三より大きくなることは有り得ない。しかし、それは数字の世界の中でしか適用されない。ご丁寧にもその事実が正しいのだと目の前で証明してくれた奴が居る。

「今日も練習お疲れ!また明日なー」
疲労が充満している部室の中に未だに活発さが残る声が行き渡った。部員全員からの「お疲れ様でした」を背に受けながら、そいつは部室を一番乗りで出て行った。身体をフルに稼動させ、極限まで疲労させる練習が終わると男特有の汗臭さが滲んだユニフォームが乱雑に脱ぎ捨てられる。それが一斉に毎回始まるものだから、もう俺の嗅覚は麻痺しているのではないかと疑ってしまう。直接女の子の匂いを感じる日が来る可能性を沈めるこの室内に一人だけ例外が居る。

「なぁ笠松」
笠松とは海常に入学してから三年間、友人として付き合い続けている。クラスと部活が一緒であるお陰でずっと隣で笠松を見られたし、誰よりもあいつを理解している自信があった。去年のインターハイで犯したミスがどれだけ笠松の背中に圧し掛かっているのかもそれによってすべて自分の中に溜め込む性格ができあがったのかも知っている。ここで三が優位に立つ。それなのに。

「何だよ森山。変な話なら聞かねぇぞ」
「このまま女の子に触れないまま死んだらどうする……?」
「知るか!勝手に学校の池に沈んで死んどけ!」
からかいも含めた質問をしてやったら笠松は怒りを露にして答えた。笠松はこの手の話に滅法弱い。人生において女の子とまともな会話をしたことがない時点で分かりきっている事なのだが。自分に都合のいい解釈をしてしまえば、笠松の隣に誰よりも長く立てる最高のチャンスなのだ。三年前の自分の何処にも掠らない夢を組み立てるようになった現実に対して、俺は不思議を通り越す程に落ち着いていた。

「学校の池にこんな美形男子が沈んでいるのを見てみろ!女の子達はきっと悲しむに違いない……!そういう訳で笠松、お前も道連れな」
「自我自賛すんな!何でオレまで道連れにされなきゃなんねぇんだ!」
考えたら分かる。俺は残っていた僅かな正直を利用して建前で隠した。これが精一杯だった。



それから他愛もない日常の話題を織り交ぜながら俺と笠松は会話の流れを殆ど切らすことなく話し続けていた。何度か部員からの熱意が入った「お疲れ様でした」に阻まれたが、妨害はそれだけだった。残って練習していた早川や小堀もさすがに体力の限界を迎えたようで練習を切り上げ、先に姿を消していった。それでも俺達の会話は止まることを知らなかった。

「そういえば今日お前鍵当番じゃねぇだろ。帰らなくていいのか?」
そこで流れを切ったのは笠松だった。突拍子もない話題がやって来て、俺は滑り落ちそうになった言葉を止めた。部室全体を見渡すと残っているのは俺と笠松だけだった。即ち、二人きりなのである。三が一に勝つには今しかない。俺は何の前置きもなくユニフォームを脱ぎ捨てようとする笠松の手を止めた。

「お、おい森山!」
笠松は動揺を隠しきれていないようで俺の手を振り解こうと必死になっていた。このまま正解を不正解に変えてしまえばいい。そうすれば数字の世界の事実だけが正しいことになる。

笠松の身体を引き寄せようとしたちょうどその時だった。

「センパーイ、まだ残ってるんスかー?鍵、閉めちゃいますよー?」
廊下から一番聞きたくない後輩の声がした。その声に俺が気を取られたのを笠松は見逃さなかったようで一瞬間のうちに俺の手は行き場を失っていた。

「……悪い笠松。さっきの忘れてくれ」
「あ?あぁ。黄瀬に見られてたら危なかったぞ……」
笠松の口から黄瀬の名前が出た瞬間、俺はどんな顔をしていたのだろうか。想像するのは容易だがそんな己の顔を見たいとは全く思わなかった。徐々に「センパーイ」と黄瀬の笠松を呼ぶ声が近づいている。さっさと着替えて帰ってしまいたい。どうして三は一に勝てないんだ。手が震えて指示に従ってくれない。

「お疲れっス。あれ、笠松先輩と森山先輩だけっスか?」
「見れば分かるだろうが!……着替え終わったら帰るぞ」
「ほ、本当スか!?センパイと帰るの好きなんスよ、オレ」
「お前堂々と恥ずかしいこと言ってんじゃねぇよシバくぞ!」

いつの間にか部室に戻ってきていた黄瀬はひどく幸せそうだった。だが、俺に向けられた視線には純粋とは程遠い感情が添えられていた。俺には見せたこともない笠松の赤い表情を独占している黄瀬が羨ましくもあり憎らしくもあった。一に勝てない三など惨め以外の何物でもない。俺だけしか知らないと思っていた笠松の一面もすべて知っている。隣に抱き寄せる手はもう、なかった。

12/07/18