「幸男」
今まで喉に詰まらせたままだった笠松の下の名前をついに取り除くことができた。友人として付き合い続けた二年間が終わり、恋人として付き合うことになった一年目が開始されてから抑制してきた行為だったが、よく耐えられたものだと自分に拍手を送りたくなった。初めて呼んだ下の名前は新鮮であると同時に恥ずかしさを差し出して来た。作り変える間がないままできた不恰好な俺の声は空間に溶けた。
「……笠松?」
間を空けて返事を待ってみても笠松からの動きはない。恋愛事とは遥か遠く離れた所にずっと立っていて、一途にバスケだけを見つめてきた男だったと思い返す。今でも笠松のバスケに対しての誰よりも強い熱意は衰えていない。踏んですらいなかった恋愛の出発点に笠松を立たせるために、俺は極点に届きそうな程まで膨張した愛情を隠し続けた。そして、そのまま迎えた三年の春を機にそれは破裂し、俺は笠松に敷き詰められたすべてを晒した。動揺して肩を全力で殴られるかと思ったが、頬を紅潮させて小さく頷いた数秒の出来事は「運命」としか表現できなかった。
一年目が開始されてからまだ半分にすら到達していないのに、階段を上った関係に義務付けられた行為は殆ど済ませたも同然だった。一段上る度に見せてくれた笠松の露骨に嫌がりながらも朱色に染まった頬には見惚れる要素しかなかった。それによって笠松に抱いている愛情がより一層強固なものになり、俺はつっつと一段だけ欠けた階段を駆け上がったのだった。
「もり、やま」
ぎこちなさだけが残る笠松の声が俺の耳に届いた。笠松の思考回路は追いついていた記憶からの誤差を拾いきれていないようで、それに従うようにして俺を指す単語の塊が分解されていた。怯えとはまた異なる震えた声がするりと入っていく。
「おま、え……いきなりすぎんだろ……」
「こういうのは不意打ちが普通だ。それに、今日が何の日かくらい覚えてるだろ?」
「今日?別に何もねぇけど」
あっけからんと答えた笠松に、俺は驚く事の当然性を孕んだ会話の流れに乗って素っ頓狂な声を思わず放り出そうとしていた。自分が生まれた日を覚えていないとは俄かに信じ難い。ちょうど去年のこの日が笠松を嫌な記憶に縛り付ける日になったことを俺は隣で見てきた。それとは逆の意味だけが存在している一日が同時に動いていたのだ。無意識のうちに、前者に振り返ってしまったのだろう。笠松の眼は嘘を付いていた。
「今日の日付、見ろよ」
透けている嘘を削除するために俺は笠松の左手を取り、部室の壁に掛けられているカレンダーの赤く囲まれている日付を指してやった。その枠内に大量に詰め込まれた笠松を祝う文字が最低限の予定しか書かれていないカレンダーの中で一際輝いていた。どれも字面から焦りが伝わってくる。それもそのはずで、笠松が部室に戻って来る時間を計算して制限時間を限界まで使って書いたのだ。それでも、笠松を祝う気持ちは紛れもない本物である。
「森山、これって」
目の前に記された正解を笠松は確認するようにして尋ねる。心なしか、笠松の指先が震えている気がした。
「誕生日だろ。今日くらい忘れてもいい」
嘘で誤魔化されていた笠松の眼から既にそれは消えていた。そこには去年に蝕まれ続けていた笠松の姿はなかった。笠松は気恥ずかしそうにカレンダーの赤い枠の内側を見ていた。
「あいつら……。このでっけぇ汚い字、早川だろ?」
「そうそう。まぁ時間ギリギリだったから全員字汚ないけど許してくれって」
「こういうのに許すも何もねぇよ馬鹿」
笠松はカレンダーを見て笑いながら言った。俺はこの時、柄にもなく部員全員に感謝したい気持ちで一杯だった。一段だけ抜けた階段が完全なものになり、終点が更に延長されたのだった。
「お前も頑張ったな」
「お前はオレの保護者か!そ、それより何でさっき名前で呼んだんだよ」
笠松は赤らんだ頬を役目を課せられていない左手で隠しながら俺に聞いた。隠さないで欲しい。俺は笠松の左手を退かし、そのまま唇と唇の距離を埋めた。即座に思い出せるまで堪能した柔らかな感触は限定されたものに変化を遂げていた。すぐに終えるつもりだったが、そうはいかなくなった。俺はぶら下がった笠松の左手を掴み、指の隙間に侵入して強く握った。
抵抗がやって来ない。完全に手段を塞がれたわけでもないのに、と俺は不思議に思い笠松の顔を覗いた。赤みを増した頬と定まらない視点が笠松の動揺を俺に的確に伝えていた。精一杯の自制が逆らい続ける。ざらついた味が舌を伝ったらしいが、それでも制止を受け入れることはなかった。
「誕生日だから、って単純な理由じゃ怒るか?」
「分かってて言ってんだろ……」
離された唇の感触の余韻に浸っていたら、羞恥が密集された笠松の拳が俺の肩に弱々しい力で襲撃した。主将として後輩を叩きこんできた一面は潜伏していて、恋人の手を待っていた。俺は笠松の逸らされたままの目線を奪って、不器用に待つ手を包んだ。
「俺だけが名前で呼んだんじゃ、何か足りないと感じないか」
「は!?な、名前で呼べってことかよ!」
「そういうことだ。俺だけ呼んだってつまんないだろ。それに、聞きたい」
笠松は嫌だと言わんばかりに俺を睨んだが、固まった拒絶の意思はその中に含まれていなかった。俺は侵入を受け入れた左手の握る力を強めて、笠松の眼を見る。
「よ、したか。……これでいいんだろこれで!」
笠松の口から初めて放り出された俺の名前は赤い震えに包まれていた。直後に添えられた渋々さを主張する言葉は、赤面しながら言ったことによって効果を失った。俺は形容できない喜びに押し潰されそうだった。
「幸男」
「何だよ」と答えが返って来る前に俺は再び笠松の名前を呼び、唇をそっと撫でた。柔らかく軽い愛情の交換で終わらすはずだったが、笠松から俺にそれを拒む知らせが伝わってきた。視線を落とした先には強く締められた左手があった。一度だけ唇を離し、「誕生日おめでとう」と耳元で囁いてやると、笠松は身体を震わせながらも素直に「ありがとな」と言った。そしてまた俺達は愛情の交換を始めたのだった。
12/08/03
森笠でお誕生日おめでとう!遅れちゃったけど愛を詰めました。