俺が知らない時間を利用して、二人の関係を覆っていた靄が嫌になるほど透明に取り除かれていた。それによって繋がれていた緊張関係は途切れ、結ばれた新たな関係が疑問を持たずに二人の間に座っていた。生きる事において必要な常識がそこに凝縮されていた。

「ミドチン。何してんの」
「見て分からないのか。爪のケアをしているのだよ」
今日も赤ちんと将棋をしているに違いない。俺は部室に顔を出してみたが、そこにはミドチンが一人でいつもの堅苦しい表情をして座っていた。自分の爪を凝視しつつ、入念に爪鑢で手入れをするその姿はまるで醜い姿を隠そうと必死な女子のようだった。それが全身ではなく爪に限定されただけで、随分と見方が変わるものだと思った。

「うん、知ってる。爪のケアってそんなにしなきゃいけないものなのー?」
「当然だ。シューティングの精度に関わるのだから怠るはずがないのだよ」
「ふーん。よく分かんないけど、ミドチンにとっては重要なんだね」
人の拘りには下手に足を踏み入れない方が良い。散々赤ちんに怒られたと二人ぼっちの部室で振り返る。それでも、俺は自分の拘りを廃する意欲はこれっぽっちも持っていない。赤と緑が閉じ込められると時間が凝固するが、赤を紫にすり変えるとそれは瞬く間に融解する。二人の関係も融けたらどれだけよかったのか。纏わりつく嫉妬が鬱陶しい。

「この将棋盤、ずっと使ってるよね」
二色の密着具合を象徴する将棋盤が俺を邪魔者扱いするようにして睨んでいる。負けじと俺もぎろりと睨み返す。将棋盤に怒りを剥き出しにしているなんて子供にも程がある。頭で理解していても、嘘は色を吸収する。ミドチンは呆れで塗られた溜息を吐いた。

「いきなりお前は何を言いだすのだよ。入部してから毎日、赤司とやってきたからな。ただ」
「ただ?」
鸚鵡返しに答えるとミドチンは機械のようなタイミングで続きを止めた。しかし、機械を演じていたのは口の動きだけで感情までは行き届いていなかった。


「勝ったことは一度もなかった」
自尊心の塊の男がそう言ったのだ。至る所から滲み出ている不透明が俺にまで伝わってくる。ミドチンの掌に爪がめりこむ音がした。「一度も」と言葉を作った瞬間の顔は、見たくないものだった。

「……うん」
「一歩先を読もうとしても、赤司は二歩、三歩先を読んでいる。だから、何をやっても通用しなかった。それでも勝てる日が来るまで俺は止めないのだよ」
「うん」
勝利の二文字に拘束された人間はひたすら一本道を歩く。絶対にゴールまで辿り付ける保証は何処にもないし、途中で壁にぶつかる可能性だってある。でも、ミドチンはそこで詰まることはないときっぱり言い切った。またそんな顔して言う。俺のこころに挨拶してきた霧は少しずつ俺を蝕んでいた。


「それに赤司には感謝している」
「何それ。ミドチンにとっての赤ちんってそんなに大きかったっけ」
ぎちぎちと俺のこころが徐々に縛りつけられていく。色を吸った嘘が身体に伝う。衝動で生まれた感情を制止できる程、大人ではない。室内から突然聞こえた袋の擦れる音が耳に障る。しかし、その音が感情を引っ張る。俺はミドチンの手を掴んで、椅子から離した。

「ミドチンって指、きれいだよね。赤ちんには勿体無いや」
唐突な行動に驚きを隠しきれていないミドチンを楽しみながら、俺はミドチンの右手の指を口に含んだ。がぶりと喰らい尽くすように。赤ちんに逆らうことはバスケ部に逆らうに等しい。でも、これだけは譲れないのだ。痛みを堪えながら、苦痛で歪んだ表情を隠すミドチンにこころがぞくりと震えてしまった。

「むらさき、ばら」
いつもの冷静さが乱れた声が俺の名前が紡いだ。それに加えて、ミドチンの指にくっきりと残った噛み痕が俺を現実に連れ戻した。現実に立ってミドチンを見る。ミドチンの中に俺はいない。その代償として、鮮やかすぎる俺の本音がミドチンの指に作られた。

「ごめーん。痛かった?」
「あんなに強く噛まれて痛いと思わない馬鹿が居るわけないのだよ……」
意外な感想に俺はつい、嬉しいと思ってしまった。未だ残った痛みに僅かな震えを訴えているミドチンの指に食指が動こうとする。しかし、近付いてくる聞き覚えのある足音によって動くことはなかった。


「それよりもお前はそろそろ戻らないと赤司に怒られるはずだ。さっさと戻れ」
「あー、もうそんな時間だったの?じゃあ、これ」
何回聞いても刺さるものは刺さる。俺はそれを打ち消したくてポケットの中を弄った。ミドチンが不思議そうに俺を見る。そんな視線を違う道具に誘導したくて、俺は群を抜いて好きな味のまいう棒をポケットから取り出し、浮遊させた。
ミドチンはすかさず受け取った。

「あげる。ミドチンにぴったりだと思う。じゃ、俺は戻るねー」
耳にこびりついた床を踏みにじる音が間近に迫ってきている。俺は平然を繕いながら扉を開け、赤ちんと入れ替わった。その時、赤ちんから渡された憎悪にも似た色は忘れることはないだろう。優しい音で閉じられたと思わせておきながら、実は乱暴さが含まれた、二人だけの入り口。俺が歩いた道は既に通行止めになっていた。部室から微かに漏れる会話が突き刺さる。

「あの味、赤ちんは嫌いかなー。まぁそっちの方がいっか。……もっとミドチンを知りたかったのに」
言葉にしても掻き消されてしまう。俺は色を吸いすぎて重くなった嘘をどこかに投げ捨てたくて、走った。

12/08/17